安倍晋三元内閣総理大臣を偲び、ここに私の思いを掲載します。

動画メッセージ

不屈の政治家 安倍晋三写真展

11月19日から12月1日まで東京タワーの1階で開催されている月刊「正論」主催「不屈の政治家 安倍晋三写真展」を鑑賞しました。

追悼文

祖國と靑年 追悼・安倍晋三元首相
「覚悟の政治家・安倍晋三さん」

 私の人生で、これほどの喪失感に打ちのめされたことはありません。茫然自失の私の胸に今も残響するのは、吉田松陰の辞世の句であります。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂」。この世を去った後でも、残された同志が必ずや意思を継ぐという意味であります。

 昭恵夫人は、安倍晋三さんが父の晋太郎さんへの手記の中で、吉田松陰の留魂録を引用されたことを紹介して、「主人も政治家としてやり残したことはたくさんあったと思いますが、本人なりの六十七年の春夏秋冬があったと思います。最後、冬を迎えましたが、種をいっぱいまいているので、それが芽吹き、やがて実を結ぶことでしょう。」と涙されました。

 私と安倍さんとの出会いは1980年代にさかのぼります。衆議院議員の当選は私が1期上でした。ひざ詰めで話すようになると、安倍さんの確固たる国家観と政治への情熱に刮目させられました。安倍さんが当選2回のとき、政務調査会副会長だった私は「将来、総理になるには社会保障を熟知しなければいけない」と助言し、亀井静香政調会長に進言して、安倍さんが自民党社会部会長に抜擢され、宰相への道を歩みだすことになりました。

 私にとって安倍さんは最強の同志でした。私は2005年、小泉政権での郵政民営化法案に反対して、自民党を追われました。もう政界に戻ることはないのかという悔しさと戸惑いがありましたが、2007年の参院選で、首相になった安倍さんは「衛藤さんは私にとって欠かせない同士だ」と言って、造反組から私ただ一人を公認候補に引き立ててくれました。それは単に安倍さんの深い情けだけではなかったと思います。憲法改正、教育改革、外交・安全保障の抜本的な変革等々の課題に対し、この日本国の行く末を案じ、「美しい国 日本」を創造していく私たちの魂の共鳴が、私を安倍さんの下へ導いてくれたと確信しています。

 安倍さんは強い覚悟を持って国政に携わっていました。2年前になりますが、第2次安倍政権をつくるために中心となった、いわゆる保守本流の国会議員の会である〝創生「日本」〞の会合を、第2次安倍政権が終わったタイミングで、椿山荘で開催しました。その際の会長挨拶で、安倍さんが山縣有朋の話をしました。「椿山荘は山縣有朋の屋敷跡なんですが、山縣は伊藤博文が羨ましいと言っていた。なんで羨ましいのかというと、伊藤博文は生前、早くに倒れていった吉田松陰先生や高杉晋作先生やいろんな方々のことを考えると、死ぬ時だけは畳の上で死にたくないと言っていた。そしてその通り、ハルピンの駅頭で撃たれた。だから山縣は伊藤が羨ましいと言っていた」という話を披露しましたが、安倍さんは留魂録のような、そして伊藤博文や山縣有朋のような覚悟を持って政治に臨んで行ったんだと思います。

 また、安倍さんはものすごくよく勉強をしていました。過去の歴史から文化から経済から世界史のことまで、とりわけ近代からの日本の歴史についてはしっかり勉強されておりました。だからこそ彼は外交で新しい外交方針を打ち立てることが出来たし、新しい日本の在り方を提起出来たんだと思います。「日本を誇れる国にしたい。一刻も早く戦後体制に終止符を打ち、新しい「日本の朝」を迎えたい。」その信念をよすがとして、全力で駆け抜けた人生だったと思います。教育基本法の六十年振りの抜本改正、北朝鮮による拉致への対策、謝罪外交を終わらせる七十年談話、アベノミクスでの経済の再生、TPPによる自由貿易体制の確保、外交では日米豪印を軸とするインド太平洋構想、特定秘密保護法、平和安全法制の制定と戦後体制からの大転換等々、その功績は計り知れないものがあります。安倍さんは、どんな挫折にもめげない固い意志と強い使命感を持って政治に当たってきました。加えてどんな人をも虜にする人柄の良さが多くの人に感銘を与え、世界中から惜しむ声が上がっているのだと思います。

 あとに残された者は、山積する死活的な喫緊の課題に全力で取り組まなければなりません。憲法改正、男系による安定的な皇位継承、日本を守り抜く安全保障体制の確立、そして先端技術の世界トップへの回帰、少子化対策やエネルギー問題の解決等々であります。

 最後に、松陰の辞世の句に投影された安倍さんの思いを体現していくこと、それこそが、安倍さんの遺志に報いることになると確信しています。今こそ、戦後体制を脱却し、新しい日本を創っていこうではありませんか。

寄稿日本の息吹 令和4年12月号

10月1日に長崎市内おいて「安倍晋三元首相を偲ぶ佐賀県民の集い」で衛藤晟一が特別講演をした要旨を「日本の息吹」12月号に掲載されたものです。

「安倍さんの志を継いで」

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留魂録

 昭恵夫人は、増上寺での葬儀の挨拶で、安倍晋三さんが父の晋太郎さんへの追悼の手記の中で、吉田松陰の留魂録(りゅうこんろく)を引用されたことを紹介して、「主人も政治家としてやり残したことはたくさんあったと思いますが、本人なりの67年の春夏秋冬があったと思います。最後、冬を迎えましたが、種をいっぱい蒔いているので、それが芽吹き、やがて実を結ぶことでしょう」と涙されました。

安倍さんが尊敬してやまなかったのは吉田松陰先生、伊藤博文初代内閣総理大臣、そしてお祖父さんの岸信介氏でした。

 

自民党綱領をめぐる攻防

 安倍さんは平成5年に衆議院に初当選されますが、当時、自民党は政権を失って下野していました。政権復帰には党の改革が必要だということでいろいろな改革論議が起きました。その中で出てきたのが自民党の綱領から自主憲法制定という文言を削るべきだという意見でした。当時、党の改革委員会に私や中川昭一さんらと共に入ったのが安倍さんでした。私たち若手は猛反発し、真の独立国家を目指すために、これからの時代にふさわしい憲法をつくるべきだと主張し、憲法改正の党是を守ったのです。そのときから安倍さんとはまさに同志として一緒にやってきました。

皆さん、あまりご存知ないかもしれませんが、安倍さんは社会保障政策にも精通していました。お祖父さんの岸信介総理は安保改定で苦労されましたが、国民皆年金制度を敷き、国民皆医療保険制度への道を開きました。

そして孫の安倍さんは、私たちと共に、介護保険制度をつくるのに尽力しました。安倍さんをその道に引き込んだのは私です。少子高齢化が進むなかでいかに社会保障を守るか、しっかりと理解しておかないと総理にはなれないよと、私は安倍さんに進言して自民党の社会部会(現在は厚生労働部会)で一緒に汗を流しました。のちに総理になった安倍さんから「衛藤さん、あなたの言った通りだった。社会保障の勉強をやっておいてよかった」と言われました。党首討論でも社会保障についての安倍さんの精通ぶりは他を圧倒していました。

 

教育への思い

 平成9年には「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(*)をつくりました。

(*)のちに「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」へ名称変更。

中川昭一さんが会長、私が幹事長、安倍さんが事務局長でした。教科書に「従軍慰安婦」という記述が載ったときで、勉強会を積み重ね、「従軍慰安婦」などという用語はあとで恣意的に作られたもので、当時、慰安婦はいたけれども強制連行はなかった、ましてや20万人の性奴隷など全くなかったことが分かりました。こうして教科書改善にも寄与できました。そのときの思いは、のちの戦後70年談話の「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」に続いています。

さらに教育基本法改正にもつながっていきます。旧教育基本法は個人の人格の完成ということを目標に掲げていましたが、社会に有為の人間を育てるという視点が欠けていました。教育はその両輪がなければならないということで、教育の目標をどう定めるか、について安倍さんは腐心されました。

そして新教育基本法では、第二条の「教育の目標」に、「豊かな情操と道徳心を培う」「勤労を重んずる態度を養う」「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画」「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛する」など書き込まれたのです。これは第一次安倍政権の重要な成果でした。確かに種は撒かれているのです。あとはその志を継いだ私たちが、この種を大切に育て、花を咲かせ実を結ばせていかねばなりません。

 

創生「日本」

 平成21年(2009)、自民党は再び下野し、民主党政権となりました。その時は中川昭一さんが落選されて、その後亡くなられるという悲劇もありました。民主党政権が10年も続けば自民党も日本もガタガタになってしまうと危機感を強めた私たちは、保守の中核体を作っておかなければならないと、その2年前に平沼赳夫先生らと結成していた真・保守政策研究会を創生「日本」へと衣替えしました。名称は候補のひとつ「日本創生」から安倍さんが文字の並びを変え、決まりました。3年半かけて勉強会を重ね、中間報告『新しい「日本の朝」』をまとめました。わずか8頁のレポートでしたが、のちの第二次安倍政権で取り組まれた重要政策はほとんど入っています。このタイトルも安倍さんが決めました。安倍さんの思いが詰まっていました。

外交安全保障政策では、安倍さんのすぐれた戦略家としての資質を世界の識者は高く評価していました。米ハドソン研究所前所長のワインスタイン氏は、安倍さんはレーガン大統領に匹敵する戦略家だと言いました。レーガンは長年にわたりソ連研究を重ね、冷戦終結を導いた。安倍さんは早い時期から台頭する中国の挑戦を認識し、これにいかに対処していくかを考え、クアッド、自由で開かれたインド太平洋構想を実現した、と。

吉田茂が敷いた戦後日本の体制を乗り越えて新しい体制をつくらなければ国はもたない、との強烈な危機感をもっていた安倍さん。だからあれほど支持率を落としながらも平和安全法制も通すことができた。そのおかげで米軍との信頼関係が深まり、抑止力が高まりました。

 

日本を誇れる国にしたい

 若い世代に安倍さんへの支持が多かったのはアベノミクスによる経済再生が大きな要因のひとつでしょう。デフレ脱却のための金融緩和を断行したときの安倍さんの覚悟は見事でした。GDPは飛躍的に伸び、有効求人倍率は倍増、失業率は半分になりました。

安倍さんが亡くなったあと、自民党清和政策研究会(安倍派)の総会に来られた昭恵さんは、こう話しておられました。「主人は常々、日本を誇れる国にしたい、子供たちが生まれてよかったと思える国にしたい、世界に輝く国にしたい、と言っていました」と。その思いもあって、「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」を掲げて頑張ったんだと思います。

 

覚悟の人

 第二次安倍政権が終わった直後、創生「日本」のメンバーが東京の椿山荘に集まりました。その際の会長挨拶で安倍さんはこういう話をされました。「この椿山荘は山県有朋の邸宅跡だ。山県は生前、伊藤博文がうらやましいと言っていた。伊藤は、松陰先生はじめ多くの方々が倒れていったのに自分だけがおめおめと生きている、せめて死ぬときだけは畳の上で死にたくない、と言っていた。そういう覚悟をもって伊藤は生きていた。そして伊藤はその言葉通りハルピン駅頭で凶弾に倒れた。だから山県は伊藤がうらやましいと言っていた」。まさにそのような覚悟で安倍さんはやっておられたのです。

吉田松陰の留魂録の冒頭に掲げられているのは、

「身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」

という和歌でした。私たちは、安倍さんの魂を慕いつつ、その志を継いでいかなければなりません。

寄稿正論 令和4年10月号

正論 令和4年10月号 特集 安倍元首相なき光景

「全力で目指した新しい「日本の朝」」

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 安倍晋三元首相が七月八日に凶弾に斃れてから二カ月近くが経ちます。改めて安倍さんのことが思い出されます。極めて残念、痛恨の極みです。

 七月十二日の東京・芝公園にある増上寺での葬儀で、昭恵さんの喪主としての挨拶を聞いて、お二人は世間からいろいろと言われたが良い夫婦だったなと思いました。

 昭恵さんは幕末の志士、吉田松陰の『留魂録』の一節を引いて、「十歳には十歳の春夏秋冬があり、二十歳には二十歳の春夏秋冬、五十歳には五十歳の春夏秋冬があります。父、晋太郎さんは首相目前に倒れたが、六十七歳の春夏秋冬があったと思う。主人も政治家としてやり残したことはたくさんあったと思うが、本人なりの春夏秋冬を過ごして、最後、冬を迎えた。種をいっぱいまいているので、それが芽吹きやがて実をなすでしょう」と話しました。

 私は学生時代から留魂録を読んでいたので、すぐにピンときました。安倍さんは父の晋太郎さんの追悼文でも、父にも春夏秋冬があったのだろうということを書いていました。

 留魂録は、松陰が処刑される前日までの二日間に書き上げた、同志にあてた遺書です。その書物を引いた昭恵さんは、安倍さんの本当の同志だったのだと思いましたね。安倍さんは昭恵さんのことを「戦友」とも言っていましたが、それも正しいと思います。

 安倍さんという人は、中高生の頃から非常に幅広い勉強をしていた。高校時代も歴史の先生と一時間ぐらい討論して、先生が負けたという話もあると聞きました。

 安倍さんは晋太郎さんが亡くなったことを受けて衆院選に出馬するわけですが、春夏秋冬のことを書いた時、安倍さんは覚悟を決めたのです。戦後レジームから脱却しなければいけない。そうでないと日本の新しい未来は拓けない、と。

 昭恵さんは七月二十一日の自民党清和政策研究会(安倍派)の総会に来られました。そこで派閥の皆さん方に主人の後を託しますという中身の挨拶をされた。最後に「主人は常々、日本を誇れる国にしたいと言っていました。さらに子供たちが生まれてよかった国にしたいと言っていました。世界に輝く国にしたいと言っていました」「この主人の思いを実現してくださるのは派閥のみなさまです。宜しくお願いします」と締めくくりました。派閥の皆さんに託すというのは安倍さんの思いでしょう。

 

伊藤博文と山県有朋

 本誌九月号でも西岡力さんが紹介していましたが、「山県有朋は伊藤博文をうらやましいと言っていた」と安倍さんは話していました。これは、二年前、安倍政権が終わった後に、第二次安倍政権を生んだ議員グループ、創生「日本」のメンバーで、山県の旧邸宅だった東京・目白の椿山荘に集まった時の話です。

 長州藩では吉田松陰をはじめ、松陰が開いた松下村塾の門下生でも久坂玄瑞、高杉晋作や吉田稔麿らは倒幕運動の中で重要な役割を果たしながらも、道半ばで処刑されたり戦場に斃れたりなどして、明治維新を迎えることはできなかった。門下生の中で生き残った伊藤は「死ぬときは畳の上で死にたくない」と言って、現に暗殺されて畳の上で死ななかったわけです。

 伊藤がそう話していたということを、私は朝鮮李王朝の李家の養育係だった祖母から韓国統監だった伊藤が李家によく来た時に話していたとして聞いていました。同じ門下生の一人として山県が伊藤をうらやましがっているという話と、伊藤が死ぬときは畳の上で死にたくないという話のどちらも知っている私は、安倍さんが話しているのを聞いて驚いたものです。

 伊藤博文の話をすることからも、安倍さんは常に本気で、全力で生き抜こうと思ってやってきた。政治に対して、どんなことがあってもいいように覚悟を決めていた。一刻も早く戦後レジームを打破して、新しい国をつくるという思いからだったのです。

 

行動する集団へ

 その思いを持った安倍さんが、創生「日本」が平成二十四(二〇一二)年四月にまとめた政策集の題を、︿新しい「日本の朝」〉と決めました。もともと中川昭一、平沼赳夫、安倍晋三、そして私が最初のメンバーで「真・保守政策研究会」を立ち上げました。中川さんの落選、続く死去に伴い、研究会じゃだめだ、行動する集団の名前に切り替えなければということで、平成二十二年二月に創生「日本」になりました。三つの候補から安倍さんが「日本創生」を選び、文字の並びを変えたのです。

 政策集はA4判八㌻。簡潔に書いていますが、創生「日本」になった平成二十二年二月から二年間の勉強会を経てまとめた政策で、安倍さんの思いが詰まっている。最初のページを紹介します。

 日本再起。強い日本で、新しい「日本の朝」へ

 ◆日本は宏遠なる歴史と伝統、素晴らしき国民性を有する国。しかし、日本はいま早急に乗りこえるべき大きな課題を抱えている。

 ◆まず隣国・中国の軍事的台頭による日本周辺の軍事的・外交的環境の激変。米国は依然として最強のスーパーパワーであることは事実としても、今や力の相対化は否めず、日本の主権と独立の確保のみならず、アジアの平和と安定のために日本の果たすべき役割は増大している。

 ◆しかし、この現実を前に、日本が何らの対応もなし得なければ、日本は独立の国家たり得ないだけでなく、「誇りある国家」として存続し得ない。そのような現実を乗りこえるべく、日本は今こそ現行の憲法を基盤とする体制を見直すとともに、国家としての明確な意志を確立することを求められている。

 ◆一方、日本経済はバブル崩壊以降、アジア通貨危機、IT不況、9・11テロ、リーマンショック、東日本大震災という一連の試練に直面してきた。そのような相次ぐ困難によるものとはいえ、この間、日本経済が一定の足踏み状態を続けてきたのは事実である。その最大の原因は明らかに長引くデフレであり、そのためには一日も早いデフレ脱却への政治の決断と、力強い成長による財政の再建が求められる。

 ◆そのために、われわれに必要とされるのは、まず「戦後レジーム」を始めとしたこれまでの政治の「古く厚い壁」を打ち破る力と意志である。それこそがこれらの難問を乗りこえ、われわれが再び新しい「日本の朝」を迎えていくために求められるものであり、われわれに与えられた使命であるといっても過言ではない。

 ◆東日本大震災はわれわれ自身にも忘却されていた「日本の底力」を再認識させ、日本への自信と信頼を再び甦らせた。われわれはこの「力」を再び掘り起こし、結集し、新しい「希望の日本」を実現していく。

 安倍さんは第一次政権で改正教育基本法を成立させ、第二次政権では戦後七十年談話で謝罪外交を終わらせた。日本経済の再生なくして日本全体の再生はないと経済再生をやった。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)をまとめ自由貿易体制を守り、日本を世界で輝く国にした。

 特定秘密保護法や限定的ながらも集団的自衛権の行使を可能とする安全保障法制を制定し、日米同盟関係を強化した。そして日米豪印へのフレームの拡大強化で、「自由で開かれたインド太平洋」(FOIP)を打ち出した。

 実は政策案は平成二十四年の自民党総裁選に立候補する前の二十三年の秋ぐらいから準備していました。今だから言いますが、私はこの原案を安倍さんのところに持って行って、「経済界対策を打たなければいけない」と言うと、安倍さんは「それは自分でやる」と言ったんです。選挙に勝つために、経済界対策もメディア対策も自分でやると言った。

 この時の総裁選に出馬したのは石破茂、石原伸晃、町村信孝、林芳正とみな派閥の代表でした。そこに安倍さんが出たから各派がガタガタし始めた。そんな中で手勢を持っていたのは派閥横断の若手が集まった創生「日本」の支持を受けた安倍さんだったのです。

 石破さんは総裁選に向けて準備していたから一番有利だと思われたが、私は石破―石原ラインからやがて流れは変わるとみていた。石原伸晃さんには強固な運動員がいなかったしね。

 安全保障と憲法について石破、安倍両氏を講師に招いて話をしてもらったことがあります。石破さんは憲法改正について、パーフェクトな憲法改正の話ばかりをやるんですよ。そんなのやりたくてもできるわけがない。そればかりを言っていたら、いつまでも憲法改正をやらないということですよ。石破さんは安全保障では兵器の話は詳しいけど、本当に安全保障については分かってなかったことが明らかになったんです。

 実はこの時の会合に先立って、石破さん側から、対石原で「石破―安倍連合」を作ろうという話が持ちかけられました。でも、それって安倍さんが三位になるってことでしょう。石破さんの話を聞くとやっぱりおかしいから、あ、これは安倍さんが確実に二位にいけると思い、二、三位連合の話は蹴りました。そこで安倍さんに一気に決断をしてもらうわけです。

 安倍さんには、立候補を表明する一カ月前ぐらいに、「あんた、もう失うものはないじゃないか。国のためにすべてを捧げる時が来ている。今こんな国難の時に立ち上がらないなんて政治家として許されない」「国難を国難と理解して本当に立ち上がらなければいけない時に立ち上がらないのだったら、今まで何をしてきたのかわからないじゃないか」と言いました。

 もっとも、安倍さんの決断の時には創生「日本」でも意見が割れました。「まだ早い」という意見もあった。ここで安倍さんが出て、負けたらもう一生ダメになる、つぶれる、という意見もいっぱい出ました。真剣に議論しました。

 日本の危機がこれだけ来ているにもかかわらず、経済も落ち込んでどうなるかわからない。誰かがこの流れを変えなければいけない。そこで、安倍さんに「さあ、もう決断する時ですよ」となったわけです。

 この時、安倍さんが決めていたかどうかといえば、ある程度は決めていたと思います。菅義偉さんは「とにかく出るだけ出ないと後がない」という主張だったが、私は違うと思った。あの時はどんなことがあっても勝たなければいけなかった。安倍さんはそういう意味で日本の救世主だと思いますね。

 

振り出しは社労族

 私が安倍さんと出会ったのは、晋太郎外相の秘書をしている時でした。私は昭和六十一年の衆院選で安倍派から初めて立候補し、平成二年に初当選するのですが、派閥会長だった晋太郎さんはすでに体調が悪かった。それでもヘリコプターを使って選挙応援をやっていました。自分の命を削ってまで私たちを当選させてくれました。翌三年の五月十五日に亡くなったのですが、その時に晋三さんが追悼文を書いた。それを読んで、ひょっとしたらこの人は単なる良家のぼんぼんではないのかもと思い、見込みがあると感じました。

 平成五年に安倍さんが国会に出てきた。六年六月に自社さ政権ができるのですが、私は公明党の支持母体である創価学会に批判的な宗教団体や文化人による「四月会」や、反創価学会の議員集団「憲法20条を考える会」の裏の事務局長をやったこともあり、安倍さんを引っ張りこんで事務局次長に就いてもらった。ところが、自民党も自社さ政権になると、これまで戦ってきた社会党と連立だ。ひっくり返っちゃいますよね。

 この年、私は党の社会部会長(現在は厚生労働部会)になります。当選二期で部会長になったのは私と石原伸晃だけ。石原伸晃は有名だけど、衛藤晟一社会部会長にはみんなびっくりするわけです。そして、この時も安倍さんを社会部副会長に引っ張りました。

 安倍さんには、「お父さんが外相や通産相、農林相をやったからこれらはわかるかもしれないが、これからは社会保障をわかっておいたほうがいい。もうすぐ国の一般会計で社会保障費が二分の一を超えて占めるようになるよ。社会保障のことがわからなかったら総理大臣になれないよ」と言ったんです。社会保障に詳しくなっていたから、総理になった時も困らなかったでしょうね。

 初当選の後から、安倍さんは私の誘いで日本政策研究センターの伊藤哲夫さんのところで行われていた勉強会に参加していました。そこで安倍さんは尖鋭的なことを勉強していたかのように思われていますが、実は全体に耐えられるような議論を展開することを意識した勉強をしていたのです。

 憲法九条についても、本音では二項の「陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」を削除したい。だが、今の状況では憲法九条一項と二項に手を触れることは不可能で、これをやったらもう政治的に持たないだろうと判断した。

 それなら二項に自衛隊の存在を付け加えるということだけならどうかとなったわけです。安倍さんは、理想は高く掲げるけど、ここまではできる、できないとの見極めがちゃんとできた方でした。安倍さんのことを言っていることとやっていることが違うと批判する方もいましたが、本人の思いは全然変わっていませんでした。

 

日本維新の会に問う

 最後に、日本維新の会に呼びかけたいことがあります。平成二十四年二月に安倍さんと私、そして山田宏さん(参院議員)の三人で、大阪市内で当時、大阪維新の会の代表だった橋下徹氏をはじめ、松井一郎氏(大阪市長)、馬場伸幸氏(衆院議員)、浅田均氏(参院議員)に会いました。安倍さんが同年九月の自民党総裁選で総裁に返り咲く前のことです。前回の総選挙があってから二年半以上が経っていたのでいつ総選挙があってもおかしくない。維新の連中は安倍さんを担ぎたいとなったわけです。確かに自民党単独で過半数に到達しなかったら維新と組まなくてはいけないこともありえた。

 その頃には総裁選に向けて政策の取りまとめの作業に入っていたので、安倍さんが自民党を離党し維新から担がれるということは考えてはいなかった。

 維新は当時、これまでのしがらみを打ち破り、新しい時代を作ろうとしていた。だからこそ、党名に「維新」を入れたのでしょう。彼らが掲げる柱の一つに行革を位置づけて、新しい大阪をつくろうとした。大変な功績だった。

 彼らはいま、日本全体の維新を目指していますが、あの時話した中身を忘れたのかと言いたいです。あの時、安倍さんと維新のみなさんと話したのは、もっと大きな夢を持って、日本の新しい夜明けを目指そうということでした。

 維新に限らず、自民党でもそうですが、安倍さんの遺志を継ごうとする者は、安倍さんの人格を見習うべきです。人の良いところを認めて、喧嘩をしたり、相手を向こうに追いやるということをしなかった。リアリストであると同時に、憲法改正にしても拉致問題にしても本人の思いというのはまったくぶれなかった。それが安倍晋三という人間なんです。

えとう・せいいち 昭和二十二年大分市生まれ。大分大学経済学部卒業。大分市議、大分県議を経て、平成二年の衆院選で初当選。十七年、郵政民営化法案に反対し自民党を除名され、無所属で出馬して落選。十九年に復党が認められ、十九年の参院選で当選。衆院厚生労働委員長など厚労行政に明るく、第二次安倍晋三政権で教育再生や少子化対策等国政の重要事項担当の首相補佐官や一億総活躍・少子化対策担当大臣を務めた。